ラーメン店主

【第7話】お客さんが美味しいと思ってくれれば、それでいい「長尾中華そば」

img_259492_12876834_0 青森市内に5店舗展開し、40人もの従業員が働くラーメン屋がある。10年前、店主が29歳の時に始めた1軒の煮干しラーメンの店が、今では煮干しラーメンだけではなく、全国のご当地ラーメン、二郎系、飲める中華ダイニングなど、それぞれの店が個性ある店として人気を集め、青森市民だけじゃなく遠方からくる観光客にまで広く認知される事になった。その店が、

今回紹介する「長尾中華そば」

街のラーメン屋というより、1つのグループ企業として、青森市民で知らない人はいない位の認知度を持つ。
そのグループを立ち上げ、現在は経営者として取りまとめているのが長尾大さん。津軽ラーメン煮干し会の代表も務め、日本ラーメン協会の活動にも参加し、青森のラーメンを全国へ広めるべく催事やイベントで広く活動している。
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長尾さんは、昭和49年青森市に生まれ、浜田小学校、南中学校、青森商業高校と進み、中学時代はバスケット、高校時代はラグビーと部活動に勤しみながらも、自分で働いて稼ぐ事が好きで新聞配達や回転寿司でバイトしながら、アンティーク物や好きな服を集めていったという。ちなみに学生時代は、煮干し系のラーメンには全く興味が無く、青森のB級グルメにもなった「味噌カレー牛乳ラーメン」が好きだったとの事。

高校卒業後は、とにかく東京へ行きたかったという理由で進路を選び新宿調理師専門学校へ進む。その当時、一番好きだったのが中華で、それ以降ずっと中華の道を歩く事になる。まず最初に勤めたのが、六本木の香妃園。ここで見習いとして下積みを積み、そこで知り合った先輩を慕い後を追うように、何店かの中華料理店で腕を磨いていく。中華料理店で働いていたものの、ラーメンそのもの自体に別段の思い入れがあった訳では無いが、ラーメンブームで話題の店を何店か行く程度であった。ある程度、中華料理の腕に自信もついてきた頃、青森市にある青森国際ホテルで中華料理人の募集をしている事を知り、青森へ帰省しそのホテル内にある中華料理店「吉慶」(きっちゅん)で働く事になる。店主25歳の時だった。
SONY DSC 吉慶の仕事は忙しく、それまでの個人相手の仕事とは違い、宴会・結婚式と様々なジャンルに及び、更に学ぶ事が出来たという。、青森に帰ってから、時間のある時に地元のラーメン屋を食べ歩くようになった。学生の頃と異なり、煮干しベースのラーメン屋が多い地域である事を知り、その中で出会ったラーメン屋・弘前の「たかはし」の味でラーメン作りに興味を持つようになった。吉慶でもラーメンは作っていたが、自分の味を求めたくなり29歳の時に、今の浜田店の場所で長尾中華そばを立ち上げる。
P1060679 アッサリとコッテリの2本立ての煮干しラーメンで始めた店としては初だという事もあって、店は最初から軌道に乗る。そんな中、東京で行われた「ラーメントライアウト」に出場し決勝まで残った実績や、自分の店のカップラーメンが発売された事によって、更に認知度が高まり店に収まらない位のお客さんが来るようになり他店舗展開を考えるようになった。2008年はALIへ出店(その後閉店)、2009年には西バイパス店とサンロード青森(その後移転)へ同時期に出店するようになる。この頃、全国の催事やイベントにも頻繁に参加し続け、青森ラーメンそして長尾中華そばの知名度を上げる活動にも力を入れるようになる。東日本大震災が起きた時には、有志を集め何度も炊き出しにも出向いている。この間も、元々あった「あっさり煮干し」「こく煮干し」等のラーメンには、何度も改善を繰り返し、オープン当初に比べ格段に美味い味に仕上がってきたと言う。
P1230017 全国のイベントに出店する度に、名前の知れたラーメン屋を食べ歩く事にも余年がなく、そこで学んだ味やサービスのいい部分を自分の店に取り入れ、細かい業務改善も部下に伝えながら店全体を変えてきた。朝早くからラーメンを提供する「朝ラー」文化を広めたのも、そこから学んだ事の一つだと言う。全国のラーメン店主達との交流も増え、同じ経営者ならではの情報交換の機会も増え刺激になっていった。  今では5店舗を束ねる立場となり料理人としての仕事から経営者の仕事に専念している。周りからも良く言われる事らしいが、青森市以外への出店の事に触れてみると、 味を落としたくないから、

自分の目の届く範囲内に拘っていきたい

との回答が。私自身、店主とはイベント等の打ち合わせを通して意見を交わしてきたが、彼がいつも言うのは、 収支よりリスクより何より、

「お客さん」が来た時に足りなくして食べないで帰すような事はしないでください

と口ぐせのように言う。実際、彼とイベントを企画する際に、お金の話から始まった事は一度もないし、企画内容や集客方法で議論した事すら無い。彼が私に言うのは、

イベントの目的 と お客さんに何を与える事ができるか。
そして続けていく事が大事。

と言い切る。 DSC_1562 煮干し会を立ち上げたのも、青森のラーメンを全国に広める活動を「続ける」志を持った人達と安定して活動して行くためで、会に所属する店が増える事や、会の結束を固める事は考えていないとも言う。お互いの店が切磋琢磨して競い合いながらも、青森のラーメンを全国の人に知ってもらう活動では協力して続けていければ、それだけでいいとの事。全国のラーメンを食べてみて、

東北のラーメンは美味い。そして青森のラーメンも美味い。

と改めて思ったからこそ、ぶれずに活動を続けていけるのだろう。 P1220929 自分の店に対しては、部下の責任・職域を広げていきながら、成長に見合った形で店の運営形態も変えていきたいとの事。ラーメンを軸としながらも、お洒落なバーと中華料理を融合させた店を作ったりするのも、そういう考えからだと思える。 部下に求める事を尋ねると、

作ったラーメンを、お客さんが美味しいと思い喜んで帰ってもらう事

が我々の仕事で、部下にも、その仕事の意味を理解して働いて欲しいという経営者としての言葉で、語ってくれた。  私自身プライベートでも付き合いもあり、飲んだ席や打ち合わせで話をすると、いつも短い言葉で核心をつく言葉を言う。殆ど説明もなしに、いきなり結論から言うから、言葉がきつく聞こえる人もいると思うが、根の部分では色んな事を考えているというのと、基本的に「情」のある男だと、私は思っている。議論していて「お客さん」という言葉から始まるのも、細かい理論を無視しても本当の意味で相手の事を考えているから優先されていくんだと思う。黙って黙々と働く職人タイプでありながら、経営者としての重要な部分を経験を通しながら身につけていったところを、私自身尊敬している。

P1200911自分の勘と感性を信じて行動する」「行動しなければ何も始まらない」

と彼は言う。まさに、この言葉を実践してきた事で、今の店と煮干し会があるのであろう。

「これからも青森のラーメンを全国に広めていきたい」

と最後に力強く語ってくれた。

■煮干しラーメン データ

■店名 長尾中華そば
■製麺所 旭屋製麺
■煮干し ひらご、片口、うるめ、いりこ
■特徴 アッサリとコッテリのバランスを重視したラーメン
2015-03-24 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第6話】働き者の2代目お父さん「マルミサンライズ食堂」

P1200386 青森市と浪岡町が合併して10年、浪岡も青森市となったものの旧青森市民にとって、浪岡に行くまでには車で1時間弱という位置にあり、今でもふらっと訪れるような場所ではない。そんな浪岡町にありながら、青森市内のラーメン好きにも名前を知られ、青森、隣の弘前、そして県内全域から客が押し寄せる老舗店「マルミサンライズ食堂」。スッキリとした出汁が縮れた麺に絡み、毎日食べても飽きないアッサリ仕上げで、好みが分かれる津軽煮干しラーメンの中でも、万人受けする珍しい存在だ。食堂と名の付く通り、カツ丼・カレー等、食堂メニューも豊富に揃え、座敷も広いため近くの家族連れから、個人でラーメン目当てに遠方からはるばる食べに来る客まで、幅広い層に支持される創業50年を超える老舗のお店

P1220764 今回紹介する三上善史さんは、その店を支える2代目。地元浪岡の女鹿沢小学校、中学校を経て、弘前の東奥義塾高校へ進学。小学校では陸上・ノルディック、中学で野球、高校でバスケットボールと、かなりのスポーツマン。20代からは、ラテンダンスを始め、県の代表となり全国大会にまで出たという経歴まで。今も店を手伝う奥さんの智子さんとは、そのラテンダンスを通じて知り合い26歳の時に結婚したとの事。

sunrise01 マルミサンライズ食堂は、昭和40年、農業を営みながら駄菓子屋をしていた善史さんの母が、店に来たお客さんに、ご飯を食べさせるのが好きな人で、そこから食堂を始める事になったというエピソードを教えてくれた。昔は、青森-大鰐間のバイパス沿いにあるドライブイン的役割を果たし繁盛し、昭和54年から近隣の仕事を請け負った人達の宿として旅館業も始めることになり賑わった。子供の頃から両親の商売を見て育った善史さんは、次男でありながらも長男が別の仕事についていた事もあって、中学の時から店を継ぐのが自分であるという事を自覚していたという。小学校の頃から、店にあるもので色々料理したりしていたので、高校を出る頃には、ラーメンの作り方なんかは、意識する事なく覚えていた。
 青森市内の大学に進んだが、夜は盛り場である本町でバイトし、朝から家の食堂を手伝っている生活を続けているうちに、学校を辞め家業を手伝う事に。旅館をやっていた頃の板前さんに料理のイロハを習い、ラーメンとは関係のない宴会場の料理やコイの活き造り等を教わり、腕を磨いていった。
P1200361 店では「仕出し」を始めた事もあって、夜は2時まで営業し、朝早くから仕出しの仕込みも重なって1日中働いていた。旅館業、食堂共に年中無休で営業していたので、年間通してもまともに休んだ日は殆ど無かったが、両親含め家族全員が、そんな状態だったので疑問にも思わなかったとの事。
 20年程前に、店の不動産関係のトラブルで、マルミサンライズ自体が競売にかけられ、所有者が別の会社になっても、借りる形で営業を続けフル回転で働き10年後に買い戻し自分の物としてからは、父では無く自分が店主としてやっていかなければいけないという自覚が芽生えていったと言う。
 P1200362マルミサンライズのラーメンは、父母共に強い煮干しの味に抵抗があり、鯵と昆布だけでとった出汁に、自家製麺の縮れ麺というのが基本。数年前まで麺は、浪岡のラーメン店数店が利用している鹿内食堂の麺を使っていたが、粉の値段の高騰や自分自身が昔からパスタマシーンで麺の研究をしていた事もあって自家製麺に興味が出た頃に、大和製作所という香川の会社の製麺機に惚れ込み、自家製麺に切り替える事に。何十年も変えた事の無い味への挑戦だった。
P1200352 そんな折、時を同じくして津軽ラーメン煮干し会の代表である長尾中華そばから、会への参加の案内が来た。その時まで店の仕事をこなす事が全てで、他の飲食店もラーメン屋も知らずに来たため、青森の長尾中華そばと名乗られても、店の名前自体知らない上に、ラーメン店で会を作ると言われても、どんな事をするのか自体想像する事が出来なかった。それでも何度か誘いを受けて話をしている内に、話の節々から出る技術の話や会の目指すもの、そして決め手になった一言が、

「一緒に」やっていきませんか?

という何でもないように聞こえる言葉だった。自分のラーメン屋しか知らなかった店主が、同じラーメン屋同士で、1つの事を一緒にやっていくと言われた事が、本当に嬉しかったそうだ。その後、会を通して付き合っていくうちに、会のメンバーである、ひらこ屋や五丈軒の店主の持つ技術や味の完成度に驚きを覚えると共に、自分が今まで作ってきたラーメンとは別の味のラーメンに興味を持ち、「濃い鯵」「津軽味」等の別のラーメンを作るようになった。すると、長年通ってくれた常連さんのリピートが増え、噂を聞きつけたラーメンフリークが遠方から来るようになって店の売上自体が上がったそうだ。おかげで、雇う人を増やし、店を従業員に任せて別な活動が出来るようになり、煮干し会の活動にも積極的に参加出来るようになったとの事。
P1220769 イベントに呼ばれる事も増え、別な地域へ行くたびに、そこの名物のラーメン屋を巡る事にも積極的になっていった。それでも毎日店のことばかりを何年もやってきた体には、外に出てても、お昼時なんかになると、

「今、店どうしてるだろう?」「あいつら無事にこなせてるかな?」

という心配ばかりして、落ち着いて外で羽を伸ばす事が出来ないという根っからの「働き者体質」が見え隠れする。子供の頃から忙しく働く親の姿を見て育ち、自分で働いてからも自分の店の事しか知らなかった店主に、外の世界を見せてくれるきっかけを作ってくれた煮干し会と長尾代表には、

「本当に、本当に感謝してるんだ」

と何度も嬉しそうに言う店主・三上さんの笑顔は、素敵だった。
これからの事を聞くと、まだまだ新しいラーメンを自分なりに工夫して作っていきたいと言われたので、どんなタイプのラーメンを作りたいのか伺うと、

二郎系 とか まぜそば

だそうだ。今では、インターネットやラーメン雑誌も良く読むようになり、都会で流行っている二郎やまぜそばも、自分で作ってみたくなったとの事。試作も繰り返しているみたいで、本当に近いうちにマルミサンライズ作の「二郎」や「まぜそば」が食べられそうだ。
P1220780 50年も続いた老舗食堂だが、子供達には好きな事をやらせて、自分の代で終わっていいと思ってるし、従業員が続けたいと言ったら、それもいいと考えていると語ってくれた。将来は、色んなラーメンを覚えた後に、奥さんと二人だけで切り盛りできるような小さな店をやってみたい、とも教えてくれた。
 50年続いた老舗の味と真面目な働きっぷりが染み付いた店主が、新しい仲間と出会い、味と出会い、これからも老舗を守りながら新しい味に挑戦していく楽しさを覚えた幸せが伝わる言葉だった。あったかい働き者のお父さんの言葉だった。
 


■煮干しラーメン データ

■店名 マルミサンライズ食堂
■製麺所 自家製麺
■煮干し 鯵干し
■特徴 煮干しと昆布だけで採った透き通ったスープ
2015-03-13 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第5話】ラーメンが苦手だったから自分の好きな味を求めた「中華そば ひらこ屋」

P1220706 青森市新城、郊外の国道沿いにその店はポツンとある。裏は住宅地というものの、その店には青森県内から人が押し寄せ、駐車場は常に満杯、車の中で待つ人や入り口にも行列が出来る盛況ぶり。店の名は「中華そば ひらこ屋」、青森市内でも有数の人気店である事は間違いない。煮干しをふんだんに使った濃厚な「こいくち」と透き通った「あっさり」の2種を中心に、季節限定で出される「つけそば」「らうどん」等も人気が有り、場所の不便さを微塵も感じさせずに賑わいを続けている。

P1220713 店主の三上玲さんは、昭和49年青森市に生まれ青森市佃小学校、佃中学校、平内高校へ進み、中学時代は器械体操、高校時代も様々なスポーツやバンド活動を経験した経歴の持ち主。子供の頃に母親が家の近くの食堂で働いており、学校が終わった後に母に会いに行くと、店の店主が「これ食っていけ」と色んな料理を食べさせてもらっていたが、その当時ラーメンだけは最後まで食べられないくらい苦手だったというのは意外なエピソード。インスタントも普通のラーメンも苦手で、学生時代にラーメンを食べた思い出が殆ど無かったそうだ。

P1150182 高校卒業後は一般の会社に就職していたが、何社か職を変わっていくうちに自分のこれから生きていく道を考えだすようになり、22歳の時に、飲食業へ転身する事を決意する。最初に勤めた飲食店が、子どもの頃には苦手だったラーメン専門店。拘りがあった訳ではなく、人気があり繁盛していたのでなんとなくバイトから始めてみる事に。そこのラーメン店では、様々なラーメンの種類があり、入店してから色んなラーメンを賄いで食べるようになったものの、煮干しラーメンだけは苦手だったとの事。店で働いているうちに、そこの店で「ご当地ラーメン」を新メニューで加え続けていく事を伝えられ、そこで初めて全国には沢山のラーメンの種類がある事を知り驚いた。様々な地域のラーメンを味わっていくうちに、初めてラーメン自体に興味を持ちラーメン作りが楽しくなり、数年間その店で働き店長を任されるまでになった。
そんな折、母親が病に倒れ、数年間の闘病生活を見守る立場に。ある時、母親を元気づけるために、

「一緒にラーメン屋でもやらないか?」

って言うと、母親は凄く喜んでくれたものの、その数カ月後息を引き取った。

2014-12-26-14.34.49 ショックのあまり仕事も手につかなくなり、勤めていたラーメン屋も辞め、数ヶ月は家に引きこもるような状態が続き、なんとか気を持ち直して働く事と心のリハビリも兼ね、以前から興味があった他の地域のラーメンを食べに行ったり、東京のラーメン屋でバイトがてら様々なラーメンの作り方を学びながら自分の好みの味を探していく事に。時間を見つけては、名の知れたラーメン屋を回る事も始め、そこで人生に影響を与える店を知る事になる。その店とは、ラーメンブームの火付け役にもなった新宿・サンマ干しの名店「武蔵」。イワシの煮干しが苦手だった店主が、初めて魚出汁のラーメンを旨いと思った瞬間だった。それからと言うもの何度も何度も客として足を運び味を学びながら、サンマ干しのラーメンの味を研究していった
P1220709 そして28歳の時に青森へ戻り、青森市幸畑にサンマ干しを使ったラーメン店「雷門」をオープンさせる。店は順調に客足を伸ばし、ラーメン好きの間でも知られる存在に。その頃には、昔から苦手だった魚出しのスープにも抵抗が無くなると同時に、自分なりの青森煮干しラーメンにも挑戦したくなり、雷門とは別のスタイルで、今の「ひらこ屋」をオープンさせる。雷門と同じように、徐々に客足が伸びる事を想定して始めたもののなかなか客足は伸びず悩んでいた。そんな時に不運も重なるもので病に倒れ2ヶ月の入院生活を余儀なくされる。退院後、体の事や経営スタイルも見直し、2店同時に経営するのではなく1店に集中して味を探求していこうと決め、雷門を閉めひらこ屋一本に専念する事となる。味に改良を重ねていくうちに不振だった店は徐々に客足が伸び始め、行列が出来る人気店となっていく。
P1220725 ひらこ屋の麺は、朝7時から店主自らが作る自家製麺。使う煮干しは、ひらこ、鯵、いりこ、焼干を、季節差から生じる脂の出方に合わせ配合、水出しの時間を調整しバランスを重視した仕上がりを求めている。「こいくち」に使うトンコツベースのスープは、営業用のコンロとは別に何本か準備し、トンコツだけで2日、煮干しスープと合わせて1日、それに更に新しい煮干しを加えて1日と計4日もの日数をかけて仕上げられる。毎日の仕込みをしながらも、様々な粉や出汁を試験的に試し、メニューは開店当初から変わらないものの常に改良を加えているのも人気を維持する秘訣であろう。
 店主自ら様々な味を食べ歩き、年に何度かは東京の気になる店にも訪問しながら、いいところは取り入れるようにしているとの事。出汁に拘っているうちに、「出汁ソムリエ2級」という資格を取るまでになったのも進化の証であろう。
 煮干し会を長尾代表と立ち上げ、全国へ煮干しラーメンを広げていく事にも余念がない。店ではトップでも、煮干し会においては代表を立てながら一歩引いた立場で盛り上げていく人柄も、お客さん、煮干し会の参加店から愛される理由であろう。常連のお客さんにも常に愛想よく対応し、気軽に話しかけやすい店主の笑顔が、行列に並んでも、この店で食べたいと思わせる魅力に繋がっている気がする。
P1220722 将来の事を聞いてみると、

「ひたすら味に拘って、常に初心を忘れないようにしていきたい。

と語ってくれた。今では、別の場所(佃)で「麺屋らいぞう」も運営しているが会社の名前につけた「株式会社らいもん」は、最初に作った店、最初に思った気持ちを忘れないようにするためとの事。店を増やして行く事よりも、美味しいラーメンを作っていく事に拘り、遠い将来は、

「1人で、自分が好きなラーメンを好きなように作る店をやってみたい」

と教えてくれた。
P1220728煮干しもラーメンも苦手だった店主が、今では青森を代表する煮干しラーメン専門店を作るまでになるまでには、様々な過程があっただろうが、人当たりも良く温厚な人柄にひかれた様々な人との出会いや経験が、店主自らに影響を与えてくれたんだと思わせてくれる。これからも行列を続け、青森の煮干しラーメンを全国に広めてくれる店になっていって欲しい。

 


■煮干しラーメン データ

■店名 中華そば ひらこ屋
■製麺所 自家製麺
■煮干し ひらこ、鯵、いりこ、焼干し
■特徴 アッサリ、こってりの2種ともバランスのとれた仕上がり
2015-02-27 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第4話】時間がかかっても味に拘り「価値」を上げていきたい「中華そば 田むら」

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青森市のランドマーク・サンロード青森近くに、青森一煮干し濃度が高いと噂されるラーメンがある。そのラーメンの名は「鬼煮干し」、名前からも想像がつくように「これでもか、これでもか!」という位の煮干しを使いミソラーメンと見間違うような色合い。煮干しラーメン好きの青森県民には、何店もある煮干しラーメン店を巡り続け、最後の最後でたどり着く「最終地点」のような扱いを受けている。
そのラーメンを提供しているのが、今回紹介する「中華そば田むら」の店主・田村信成さん。昭和45年生まれで、沖館小、沖館中と進み、青森南高校を卒業する。
P1220672今のガッチリした体型からは想像しづらいものの、中学校時代はバスケットボール部で汗を流していたとの事。高校卒業後は、地元のデザイン会社に勤め、紙媒体中心の版下・写植を担当。会話をしていてもデザイナーの片鱗を伺う事が出来る。30歳の時に、長年勤めたデザイン会社が倒産する憂き目に。そこで次の職を考えていた時に、興味のあった飲食業界で生きていく事を決意する。ホテルの洋食見習いから、ダイニングバー、居酒屋と様々な飲食業界を経験する。休みの日になると、ラーメンを食べ歩く事も多く、その中で出会った弘前の煮干しラーメンの名店「たかはし」に興味を持ち、居酒屋で働いている時に、仕事の関係で知り合いになった現在「ひらこ屋」を経営する三上さんと出会う。その当時、幸畑で「雷門(らいもん)」を経営していた三上さんが、新しい場所で雷文とはべつの形態のラーメン屋「ひらこ屋」を出す事を知り、そこのオープニングスタッフになるべくラーメン業界へ転じる事になる。

P1200658雷門で基本的なラーメンの作り方を学んだ後、三上さんと一緒に「ひらこ屋」の新しい煮干しラーメンを作り上げるべく、試行錯誤を繰り返しながら味を作っていった。そこで技術を学び、ラーメン作りにも興味を持ち始めた頃、自分の味と自分のペースで働きたくなり、2006年6月、今の場所(サンロード青森近く)に「中華そば 田むら」をOPENする。当初、目指したのは「アッサリ煮干しラーメンと濃い煮干しラーメンの区別をはっきりさせたかった」との事。

P1220682田むらの麺は、自家製麺。煮干しの風味を引き立たせ、かん水を控えめにするために、麺の表面ではかん水を使用せずなめらかな口当たりに重きを置き、麺の芯にあたる部分にかん水を使用してコシを出す2重構造となっている。出汁ひらこ煮干しの頭とワタを取り味を安定させる事を重要視し、いりこ(片口いわしの小さい物)を合わせる。鬼煮干しのスープは、この魚介出汁に15時間煮出したトンコツ、鶏ガラを加え調整されたもの。
トンコツスープは、朝7時から夜の12時まで毎日煮込むため、田村さんは1週間のうち店の休みの水曜日以外は、家に帰らず店に寝泊まりしている事を聞いたのは驚きだった。風呂や食事は外で軽く済ませ、夜の12時に仕込みを終えてからの睡眠時間を確保するためとの事。
P1220687だからと言って、ストイックなラーメンの鬼という訳ではなく、物腰の柔らかい、ゆったりとした感じで、色々聞かれる質問に対して丁寧に語ってくれる。聞きづらい質問だったが、周囲の人達から、たまに言われる、

1,ラーメンを注文してから出てくるまで時間がかかるんで短縮して欲しい

2,夜も営業して欲しい

という2つの要望を、質問してみると、理由はアッサリ理解できた。
まず、ラーメンが出てくるまでの時間。それは58席というラーメン屋にしては大きい方の部類に当たるにも関わらず、

店主1人だけで作っているから

というのが全てであろう。同業の友人からも、他の人にも任せてみてはどうかという事は言われるものの、

「自分の味に拘りたくて店を作ったので、体が続く限り自分で全て作りたい。」

との事。この拘りがある限り、混雑時の配膳時間の短縮はなされないであろう。話を聞いていても、「1杯の価値を高める」という言葉が何度も出てくる。こればっかりは理解する以外に対処策はなさそうである。

 2番めの夜の営業に関しては、仕込みに15時間使っている事もあり、体力・集中力が持たないためとの事。これも美味しい1杯を出すための心がけだと言える。
 1週間、店に泊まりこみ、週1日の休みも、銀行に言ったり雑用をこなして、夜に軽く飲みに行ったら終わってしまうラーメン一筋にも見える仕事っぷりだが、語る口調からは、それでもラーメン作りという仕事を、心から楽しんでいる気がする。
P1220684 煮干し会に入ったのは、懇意にしてもらっている「ひらこ屋」の店主・三上さんから誘われたからとの事だが、青森の煮干しラーメンの価値を高めるような創作活動や広め方を手伝っていきたいと、ここでも「価値を高める」という言葉を語ってくれた。
 味への拘りは、これからも

「濃い中でもスッキリ食べやすい事と、味のパンチを出したい。」

と即答。将来的にも店を増やすとか大きくするとかは全く考えておらず、自分が拘るラーメンを自分で作り続けていきたいとの事。デザイン会社から始まり、常に何かを作り続けてきた職人らしい、気持ちのいい一言だった。

■煮干しラーメン データ

■店名 中華そば 田むら
■製麺所 自家製麺
■煮干し ひらこ煮干し、いりこ
■特徴 アッサリと鬼煮干しのハッキリと区別されたラーメン
2015-02-20 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第3話】私には、これしか作れません「高長まるしげ」

P1220656 青森市長島に何十年も前から、うどんのような太さの麺と、煮干しだけでとった出汁で、シナチクとチャーシューが乗っかっていなければ、誰から見てもラーメンには見えない有名なラーメン店がある。青森市出身の元プロボクシング世界チャンピオンの畑山隆則さんが、子供の頃からタクシー運転手だった父に連れて行かれ、青森に帰ってきたら、そこのラーメンを食べないと帰ってきた気がしないと言わせるだけ、青森市民に愛された味。その味を忠実に受け継ぎ、中心市街地から離れた郊外で提供し、長島の店と同じくらい市民に愛されている店が、今回紹介するお店「高長まるしげ」 P1220665 店主の高杉茂樹さんは、昭和25年生まれの御年65歳。篠田小、古川中、山田高校と進み、高校卒業後は飲食業界とは全く関係しない一般の会社に就職。高校時代スポーツは、やっていなかったものの、働きながら柔道道場に通い2段の腕前。子ども達が小さかった頃は、道場で教えていた事もあるとの事。  高杉さんが28歳の頃、青森市にサンロード青森がオープンし、成田本店で運営する喫茶部で求人募集をしている事を知り、青森に帰って仕事をしたくなった時期でもあったので、東京から戻り就職。サンロード青森の2階に当時あった「ブックレット」という喫茶店のチーフとして4年を過ごす。そこで調理全般を学び飲食業界が好きになっていた頃、社内の人事異動で、新町にある本屋のレコード売場へ勤務する事に。 P1220660合わない訳ではなかったが飲食業界で働きたくなり、昭和59年34歳の時に退社。その頃既に、今も一緒に店を切り盛りしている裕美子さんと結婚しており、裕美子さんの実家である長島の店で何度も食べた煮干しラーメンの味に惚れ込んでいた事もあって、退社後、裕美子さんの実家であるラーメン店で修行しながら、昼だけ営業している形態だった店を夜に間借りする形で名前を今の「高長まるしげ」と、のれんを変え1人で始める事になる。  何年かは修行を兼ねて昼の営業も手伝いながら技術を盗むように覚えていった。先代は、何も言わず、ただひたすら見て覚えろという職人肌だったので、麺から出汁のとり方まで、自分の味にするまでは、昼夜兼任で働いた。完全に夜の営業を1人で切り盛りするようになってからは、昼には食べに来られないお客や、夜のタクシー運転手が立ち寄る店となり、店は昼に負けないくらいの賑わいを見せるようになる。
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 まるしげのラーメンの特徴を上げると、麺はうどんよりちょっと細いくらいの中太縮れ麺で量も1人前270gと普通のラーメン屋なら大盛りになるボリュームと、肉厚のあるチャーシューが占領しており、メニュー自体にチャーシュー麺が無い程、麺も肉もボリューム満点なところ。それを、ひらこ・片口いわしだけで取った、あっさりした出汁で、かきこむように食べるのが醍醐味。まるしげのラーメンを愛するファンは、みんなこの言葉を発し店を後にする。 「あ~、さっぱりした」 一風呂浴びたような、この言葉こそが一番しっくりくる表現だろう。

P1220197 20年間夜のみの営業だった店は、2006年8月、郊外に店を移し、昼・夜通しての営業となり、2014年末に店舗拡大をするために再移転し、今の場所となる。今の場所になってからは、修行した長島の店と同じように朝から昼までの営業形態に変わった。仕込みの時間も当然早くなり、朝4時には2階にある住居から降りてきて3時間、麺40kgを製麺機で作り、15kgものチャーシューを煮込む作業を店主1人でこなすため、1日で提供出来る量は限られる。

 まるしげの味の変遷を聞いてみると、使う煮干しの量は若干増え、麺は年齢もあり手捏ねから機械に変えたという違いはあっても、基本的な部分は30年間一切変えた事は無いと即答された。他のラーメン屋の味を意識したりしたこともなく、新しいメニューを加えることもなく、この味一本でやって来たと言い切る。  休みの日に、他のラーメン屋に行ったりしないのかとも聞いてみると、うどん・そば・ラーメンと麺類一般的に好きだが、意識して他のラーメン屋に行った事も無いと、さらっと言う。  煮干し会に参加した理由を聞いた時も、何かを学ぼうと思って入ったとか、個人的に何かをしようとした訳ではなく、 「大ちゃんに誘われたから。それだけ。」 と、親子くらい歳の違う会の代表でもある長尾中華そば店主の、お手伝いをしたくなっただけと、笑いながらあっさり言い切る。  P1220211仕事をしてる時は怖そうに見えるという客も私自身良く聞くものの、付き合ってみると、良くしゃべるし、よく笑う明るいおっちゃんというのが、私の感想。昔は、インターネットを見れない事もあってカメラで写真を撮られたりするのが、何を書かれているのか分からない怖さで撮影禁止にしたりしたけど、沢山の常連のお客さんが宣伝してくれたりしているのを知り、今では完全に慣れて、撮影禁止の貼り紙も店の移転と同時に貼らなくなったエピソードも教えてくれた。
店を大きくした理由の一つに、東京にいる息子さんに継いでもらいたいとか、考えての事かとも尋ねたが、  

「無いって訳じゃ無いけど、本人の人生だから。本人の人生が一番だから。」

って、お父さんの優しい顔で笑っていた。
P1220668今まで味を変えなかった事も聞いてみると、ポツリと、

自分のラーメンを食べると、ホッとするんだ。1年365日、30年間毎日食べてる。女房と一緒に、美味しい、美味しいって毎日。何回食べても飽きないんだ。」

と答えてくれた。  他のラーメン作ってみようとか、考えなかったのかも聞くと、

私には、これしか作れません。ほんと、それしか出来ない人間だから。」

って言い切った店主「茂さん」の笑顔は、謙遜しながらも今まで30年やってきたからこそ言えるかっこいい一言だった。

■煮干しラーメン データ

■店名 高長まるしげ
■製麺所 自家製麺
■煮干し ひらこ、片口いわし
■特徴 アッサリした出汁に、山盛りの麺とチャーシュー
2015-02-12 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第2話】昔ながらの食堂の味をそのままに「原食堂」

P1200202 昭和50年代、青森市内でも賑わいを見せていた堤町に1軒の食堂が移転してきた。廣田神社近くで始まった食堂は、浦町、松原と場所を変え、今の場所に落ち着き40年近く地元に愛され、今では情報を知ったラーメン通にも評価されるまでにもなった。
その店の名は「原食堂」。葛原(くずはら)という名前が覚えられにくいという事から縮めて今の名前になったと教えてくれたのが、現在の店主であり2代目の葛原竜治さん。甲高い声で笑顔をふりまく明るい店主さんの人柄も常連に愛される理由だろう。
奥さんの美穂子さんとパートさんで、出前までこなす堤町のシンボル的な食堂の1つ。
P1180412 店主葛原さんは、食堂のある現在の場所で育ち堤小、浦町中、南高校と進み、高校まで野球部に所属し、高校卒業後は地元の会社に就職したが、本人曰く飽きやすい性格で、どれも長く続かず職を転々とし東京へも働きに行っていた事があったとの事。そんな生活が続く中、22歳の時、母親が病で倒れ、実家である原食堂を助けざるを得なくなり帰省し軽い気持ちで手伝いを始める事に。父親である先代・明さんの補助という形で働きだし、最初は雑用や裏方をこなし、やっと慣れてきた頃に原食堂のメニューを作りたくなり、父親にレシピを尋ねると、ラーメン・そばの製麺から調理まで、何から何までレシピのようなものが一切ない上に、聞いても何も教えてくれず、「目で見て覚えろ」の一点張り。しょうがなく自分で作り始めたものの、水の分量から練り方まで何もかも父親の仕事を見ながらの手探り状態。それでも父親は何も言わず、竜治さんの仕事を見守り、怒ったり指摘もせず、何年かが過ぎる事に。自分で考え、季節に合わせ麺の水の分量を変える必要性にも気づいてくると仕事が楽しくなり、何をやっても続かなかった事が昔話になるかのように、仕事にのめり込んでいった。30歳の時に、仕事にもある程度の自信がついてきた頃、高校が一緒だった美穂子さんと結婚し、1女にも恵まれ今に至る。
P1200190 原食堂は、丼物、そば・うどんとメニューも豊富なのが特徴。竜治さんの代になってから、ラーメンと小丼をセットにしたものや「スープカレーラーメン」という食堂には逆に珍しいようなメニューも。
その中の1つに、B級グルメとしても注目されている中華そばに天ぷらが乗った「天婦羅中華」が。これも最近のものかと聞いたら、これは昔から定番であるメニューとの事だが、青森市内で天婦羅中華を食べられるのは、ここだけだろう。
(五所川原の「亀乃家」さんでは、名物として有名)
麺も自家製で作っており、重要な点を聞くと、最初の段階で行う「手ごね」季節に応じた「水加減」であると教えてくれた。これをきちんと自分の物にするまでに、
P1100657 「10年はかかったんじゃないかな~」と笑いながら教えてくれたが、いくらレシピが無いとは言え、それだけじゃなくプロのレベルとして、安定した味を、お客の前に出せる物になるまでは、それだけの時間と努力が必要なんだろう。
スープは、 「うるめ」「かたくち」イワシの煮干のブレンドで、これに鶏ガラ、豚ガラ、昆布を加え、全ての素材の良さが出る「優しい味」を心がけているとの事。煮干スープで拘っているところは、量ではなく煮干から出る「脂」の出方で味を調節しているとの回答。竜治さんがスープを担当するようになってから、若干自分なりのアレンジを加えたりしたが、歳を重ねるごとに、昔ながらの味に原点回帰するようになっていったとも教えてくれた。
P1200194確かに原食堂のラーメンを食べると、津軽そばがルーツと言われる蕎麦屋のラーメンの味を醸し出しており、今風とは言えない懐かしい味がする。沢山選択肢のある現在のラーメンの中で、原点回帰こそが逆に「新しい味」とも言えなくもない。
丼物も人気で、そこの拘りも聞くと、カツ丼、カツカレーで使っているカツは、県産豚を使い自分で揚げているとの事。以前は肉屋で作ってもらったトンカツを仕入れていたが、自分で揚げるようになってから格段に旨くなり、それから10年近く、値段の変動があっても変えずに味を守っている。出汁の効いたカレーとの相性も抜群で、ラーメンとカツカレー、ラーメンとカツ丼のセットを頼む客が多いのも頷ける。
P1180422そんな老舗の食堂が、ラーメン屋が集まる煮干し会に参加した経緯を聞いてみた。
数年前から店によく来てくれる長尾中華そばや五丈軒の店主と話をしたり、実際に店へ出向き新しい味のスタイルに刺激を受けたのと、自信を持って「自分の味」を貫く姿勢に感銘を受け、葛原さん自身も自分の味に自覚と自信を強く持ちたくなり、参加して色々な事を学びたくなったとの事。煮干し会に参加した後、一層ラーメンの味に対して拘りが出てきたのと、他のラーメン屋に行って食べる時でも意識が変わってきたのが収穫だとも。
P1200193老舗の味を守りながらも、自分自身に自信を持ち、味にも自信を持ちたいと、明るいトーンで話す葛原さんは、既に自分を持っている「立派な自信」を感じた。
 娘さんが店を継承していくか尋ねると、全く考えておらず、自分の代で原食堂は終了させる予定だと。ずっと、このままやっていくのかも分からないし、夢としては「ビートルズが聴ける喫茶店にして、ラーメンを出してみたい」と笑って言う葛原さんは、どこまでも明るい老舗店主さんだった。

■煮干しラーメン データ

■店名 原食堂
■製麺所 自家製麺
■煮干し うるめ、片口いわし
■特徴 煮干しや他の素材のバランスを考えた昔風の中華そば

 

2015-02-04 | Posted in ラーメン店主No Comments » 

 

【第1話】五所川原にあっさり系の名店あり「丸山らーめん」

青森市の郊外、市内をぐるっと巡る環状線沿いに旨いあっさり出汁の店の噂を聞いたのが10年前。観光客が訪れる三内丸山遺跡の近くにぽつんと1軒だけ建っており大体の場所を聞くだけですぐ見つかった。
P1190546  店の名は遺跡のある地名から取ったという「丸山らーめん」。名前から場所が容易に想像出来、忘れにくい名前でもある。噂通りのあっさりスープに細縮れ麺で、地元の人間が昔から愛する「津軽ラーメン」の基本をしっかり継承した一杯。添えられた薄切りバラチャーシューが秀逸で、思わず秘伝のコツを聞きたくなる位の出来。スープを飲み干し、また来ようと思っていた数年後、この店は青森市から30km離れた五所川原市へ移動する事になるが、名前は青森にあった頃の名前のまま「丸山らーめん」、今では五所川原市民と、青森市時代から通っていた常連客が、わざわざこのラーメンのためだけに足を運び、ニコニコいつも笑顔で迎えてくれる店主と美人の奥さん、娘さんの3人で賑いを見せている。

DSC04707 店主の市前さんは昭和25年生まれの64歳。生まれ育ちは鰺ヶ沢、西海小、鰺ヶ沢中学校、鰺ヶ沢高校と進み、卒業後は料理の道を目指し東京の洋食レストランへ。子供の頃は野球少年だった傍ら自分で料理を作るのも好きで、おやきやクリームパンなどを、自分で型にはめて作っていたというから夢中の程が分かる。東京で6年間3軒程の店で修行し、24歳の時に青森市へ戻り喫茶店に勤めた。26歳の時に、今でも店を手伝ってくれている奥さんと知り合い結婚、28歳の時に独立し浪館通り沿いに1軒の喫茶店を構える。洋食のコックをしていた時に腕を磨いたエビフライやしょうが焼きが人気で、地元の人の憩いの場として10年間営業。
 喫茶店を営業している時からラーメンを食べ歩くのが好きで、合浦公園近くの「つじい」や、五所川原の原子にあるネギラーメンで有名な「ラーメンショップ」に度々足を運んでいるうちに、ラーメン屋をやりたい思いが強くなり、38歳の時に喫茶店を閉め、五所川原のラーメンショップへ修行に行き、フランチャイズとしてのラーメンショップを、後の「丸山らーめん」となる地に「ラーメンショップ 三内店」をオープンさせる。環状線は開通していたものの周囲は林だらけで、なかなか開発許可が降りなくオープンまで半年ほどかかったエピソードを教えてくれた。立地の関係もあり2年位は苦労したが、その後安定してお客さんが来るようになり経営は安定。1男2女にも恵まれ、娘さん達は夏休みや日曜日になると小学生ながら店を手伝ってくれる看板娘へ成長してくれたと嬉しそうに話してくれた。そこから子育てをしながら数年、ネギラーメンの店としてフランチャイズながらも自分なりの工夫を織り交ぜながら営業していると、自分だけのラーメンを作りたくなり安定したラーメンショップとのフランチャイズ契約を解消し、自家製麺、平舘産の焼干しに拘った「丸山らーめん」として形態を変えて平成11年(99年)再オープン。三内丸山に店を構えて10年での転換、その当時店主は49歳での再出発だった。
 場所を変えずに再出発したものの、味がなかなか安定せず野菜・昆布・鶏ガラの量を足し算・引き算しながら変えていったところ、ある時焼干しとトンコツのガラだけの組み合わせが自分の求める味だと思い、続けていく事3年、客足も落ち着いてきて、ラーメンショップ当時と同じような賑わいを取り戻すことが出来るようになった。私が噂を聞いて食べに行ったのもその時の味だろう。地元のタウン誌でも紹介されており、ラーメン好きの間でも、あっさり系が好きなら丸山らーめんは外せないと耳にするようになっていた。
 そんな時、店主・市前さんの五所川原に住む叔母の様態が悪くなり、思案を重ねた結果、娘・息子たちも全員学校を卒業し、転居しても差し支えない状況になっていた事もあり、家も店も転居し叔母の介護をすべく五所川原へ。
DSC04783 平成18年(2006年)、エルムの街の近くに場所は変わったものの青森市の地名・三内丸山そのままの「丸山らーめん」をオープン。麺は体力的な事情から自家製麺を辞め「高砂食品」に頼んだ「細縮れ麺」。スープも焼干し価格が高騰してきた事等から、焼干しと煮干しを合わせたスープに変更。ここでも最初の2年程度は、客足は停滞したものの、周囲に大型店が次々と出店してきた事や地元での知名度も上がっていった結果からか、徐々に客足を取り戻していった。
P1190564 そして大きな味の転換が訪れる事に。五所川原に店を構えて3年目のある日、いつもの様に仕込みをし、開店前に試食をしていると、その日の味が妙に自分にとってしっくりする味になっている事に気づく。どうしてこうなったんだろうと考え、ふとシンクの方を見てみると、下ごしらえして寸胴に入ってなければいけない「トンコツのガラ」が、入れ忘れたまま残っていた。その時初めて自分の追い求める味は、魚介100%のスープだということを悟り、それ以来今まで、一切の動物系スープなしの味に落ち着く事に。更なる焼干し価格の高騰により、今では 100%煮干しベース(ひらこ)のスープ で、煮干しの風味に拘り仕上げている。
DSC04766 青森市でラーメン屋をやっていた時も今も、店が休みの日の大好きな趣味はラーメンの食べ歩き。青森市時代に、よく通った店が昔から通い続けている合浦公園の「つじい」と、東の矢田前にある「またべい」、店が休みになると、この順番で連食するのが週の日課になっていたとの事。それが五所川原に転居し店を開店させた3年間位は家は青森で、市前さんだけが五所川原の叔母の介護で五所川原から通い休みになると青森市内の家に戻る生活になる頃から、食べ歩く好みの店にも変化が出るようになった。家に帰る途中通る新城の「ひらこ屋」西バイパスのまえだストア敷地内「長尾中華そば」を連食するように。五所川原に完全転居しても、ひらこ屋、長尾の連食パターン(あっさり系のみ)は変わらず数年続いたある日、長尾中華そば店主より「津軽ラーメン煮干し会」への加入案内が。面識が全くなかったものの、大好きなラーメン屋、長尾中華そば、ひらこ屋が作った団体だからと、喜んで参加したとの事。
DSC04736今ではマルミサンライズや五丈軒等の煮干し会加盟店を回っていくうちに、好みの味にも変化が出てきて、知らず知らずの内に店で使う煮干しの量が増えているとの事。ラーメン以外に好きな物を質問すると、中華料理と天ぷらが好きで、古川にある「友楽」旧線路通りにある「芝八」にちょくちょく伺うと、一緒に話を聞いてくれてた奥さんが笑って教えてくれた。ここの店に行くと、店主だけじゃなく奥さん、娘さん全員が、ゆったりとした笑顔でもてなしてくれる居心地の良さを感じる。みんな店主である市前さんが好きで、娘さんから今では小学生のお孫ちゃんまで、夏休みになると手伝いに来るとの事。
DSC04772「高いお小遣いやんなきゃいけなくて困っちゃうよ」って言ってるものの、おじいちゃんは嬉しそうだ。きれいな娘さんが手伝ってくれるようになったエピソードを伺うと、現在手伝っている長女のアキさんではなく昨年までは、次女が手伝ってくれていたとの事。ある時、常連のお客さんで青森市内の老舗ラーメン店「八森」と、ここの店が好きで通っている方から、八森の2代目を紹介され、気づいたらその2代目が毎週丸山らーめんまで来るようになり、気づいたら結婚してたっていうネタのようなエピソードも紹介してくれた。
なんでも楽しそうに語る市前さんの人柄に、家族もお客も魅かれていくんだろう。
 最後に今後の目標を聞いてみると「東京進出」って笑いながらも真面目に語ってくれた。御年64歳、まだまだ楽しそうにラーメンの道を歩き、新たな丸山らーめんを見せてくれそうである。

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■煮干しラーメン データ

■店名 丸山らーめん
■製麺所 高砂食品
■煮干し ひらこ(千葉 or 鳥取産)
■特徴 煮干しだけで出汁を取った
あっさり醤油
2015-01-28 | Posted in ラーメン店主1 Comment »