2015-02
【第5話】ラーメンが苦手だったから自分の好きな味を求めた「中華そば ひらこ屋」
青森市新城、郊外の国道沿いにその店はポツンとある。裏は住宅地というものの、その店には青森県内から人が押し寄せ、駐車場は常に満杯、車の中で待つ人や入り口にも行列が出来る盛況ぶり。店の名は「中華そば ひらこ屋」、青森市内でも有数の人気店である事は間違いない。煮干しをふんだんに使った濃厚な「こいくち」と透き通った「あっさり」の2種を中心に、季節限定で出される「つけそば」「らうどん」等も人気が有り、場所の不便さを微塵も感じさせずに賑わいを続けている。
店主の三上玲さんは、昭和49年青森市に生まれ青森市佃小学校、佃中学校、平内高校へ進み、中学時代は器械体操、高校時代も様々なスポーツやバンド活動を経験した経歴の持ち主。子供の頃に母親が家の近くの食堂で働いており、学校が終わった後に母に会いに行くと、店の店主が「これ食っていけ」と色んな料理を食べさせてもらっていたが、その当時ラーメンだけは最後まで食べられないくらい苦手だったというのは意外なエピソード。インスタントも普通のラーメンも苦手で、学生時代にラーメンを食べた思い出が殆ど無かったそうだ。
高校卒業後は一般の会社に就職していたが、何社か職を変わっていくうちに自分のこれから生きていく道を考えだすようになり、22歳の時に、飲食業へ転身する事を決意する。最初に勤めた飲食店が、子どもの頃には苦手だったラーメン専門店。拘りがあった訳ではなく、人気があり繁盛していたのでなんとなくバイトから始めてみる事に。そこのラーメン店では、様々なラーメンの種類があり、入店してから色んなラーメンを賄いで食べるようになったものの、煮干しラーメンだけは苦手だったとの事。店で働いているうちに、そこの店で「ご当地ラーメン」を新メニューで加え続けていく事を伝えられ、そこで初めて全国には沢山のラーメンの種類がある事を知り驚いた。様々な地域のラーメンを味わっていくうちに、初めてラーメン自体に興味を持ちラーメン作りが楽しくなり、数年間その店で働き店長を任されるまでになった。
そんな折、母親が病に倒れ、数年間の闘病生活を見守る立場に。ある時、母親を元気づけるために、
「一緒にラーメン屋でもやらないか?」
って言うと、母親は凄く喜んでくれたものの、その数カ月後息を引き取った。
ショックのあまり仕事も手につかなくなり、勤めていたラーメン屋も辞め、数ヶ月は家に引きこもるような状態が続き、なんとか気を持ち直して働く事と心のリハビリも兼ね、以前から興味があった他の地域のラーメンを食べに行ったり、東京のラーメン屋でバイトがてら様々なラーメンの作り方を学びながら自分の好みの味を探していく事に。時間を見つけては、名の知れたラーメン屋を回る事も始め、そこで人生に影響を与える店を知る事になる。その店とは、ラーメンブームの火付け役にもなった新宿・サンマ干しの名店「武蔵」。イワシの煮干しが苦手だった店主が、初めて魚出汁のラーメンを旨いと思った瞬間だった。それからと言うもの何度も何度も客として足を運び味を学びながら、サンマ干しのラーメンの味を研究していった
そして28歳の時に青森へ戻り、青森市幸畑にサンマ干しを使ったラーメン店「雷門」をオープンさせる。店は順調に客足を伸ばし、ラーメン好きの間でも知られる存在に。その頃には、昔から苦手だった魚出しのスープにも抵抗が無くなると同時に、自分なりの青森煮干しラーメンにも挑戦したくなり、雷門とは別のスタイルで、今の「ひらこ屋」をオープンさせる。雷門と同じように、徐々に客足が伸びる事を想定して始めたもののなかなか客足は伸びず悩んでいた。そんな時に不運も重なるもので病に倒れ2ヶ月の入院生活を余儀なくされる。退院後、体の事や経営スタイルも見直し、2店同時に経営するのではなく1店に集中して味を探求していこうと決め、雷門を閉めひらこ屋一本に専念する事となる。味に改良を重ねていくうちに不振だった店は徐々に客足が伸び始め、行列が出来る人気店となっていく。
ひらこ屋の麺は、朝7時から店主自らが作る自家製麺。使う煮干しは、ひらこ、鯵、いりこ、焼干を、季節差から生じる脂の出方に合わせ配合、水出しの時間を調整しバランスを重視した仕上がりを求めている。「こいくち」に使うトンコツベースのスープは、営業用のコンロとは別に何本か準備し、トンコツだけで2日、煮干しスープと合わせて1日、それに更に新しい煮干しを加えて1日と計4日もの日数をかけて仕上げられる。毎日の仕込みをしながらも、様々な粉や出汁を試験的に試し、メニューは開店当初から変わらないものの常に改良を加えているのも人気を維持する秘訣であろう。
店主自ら様々な味を食べ歩き、年に何度かは東京の気になる店にも訪問しながら、いいところは取り入れるようにしているとの事。出汁に拘っているうちに、「出汁ソムリエ2級」という資格を取るまでになったのも進化の証であろう。
煮干し会を長尾代表と立ち上げ、全国へ煮干しラーメンを広げていく事にも余念がない。店ではトップでも、煮干し会においては代表を立てながら一歩引いた立場で盛り上げていく人柄も、お客さん、煮干し会の参加店から愛される理由であろう。常連のお客さんにも常に愛想よく対応し、気軽に話しかけやすい店主の笑顔が、行列に並んでも、この店で食べたいと思わせる魅力に繋がっている気がする。
将来の事を聞いてみると、
「ひたすら味に拘って、常に初心を忘れないようにしていきたい。」
と語ってくれた。今では、別の場所(佃)で「麺屋らいぞう」も運営しているが会社の名前につけた「株式会社らいもん」は、最初に作った店、最初に思った気持ちを忘れないようにするためとの事。店を増やして行く事よりも、美味しいラーメンを作っていく事に拘り、遠い将来は、
「1人で、自分が好きなラーメンを好きなように作る店をやってみたい」
と教えてくれた。
煮干しもラーメンも苦手だった店主が、今では青森を代表する煮干しラーメン専門店を作るまでになるまでには、様々な過程があっただろうが、人当たりも良く温厚な人柄にひかれた様々な人との出会いや経験が、店主自らに影響を与えてくれたんだと思わせてくれる。これからも行列を続け、青森の煮干しラーメンを全国に広めてくれる店になっていって欲しい。
■煮干しラーメン データ
■店名 | 中華そば ひらこ屋 |
■製麺所 | 自家製麺 |
■煮干し | ひらこ、鯵、いりこ、焼干し |
■特徴 | アッサリ、こってりの2種ともバランスのとれた仕上がり |
【第4話】時間がかかっても味に拘り「価値」を上げていきたい「中華そば 田むら」
青森市のランドマーク・サンロード青森近くに、青森一煮干し濃度が高いと噂されるラーメンがある。そのラーメンの名は「鬼煮干し」、名前からも想像がつくように「これでもか、これでもか!」という位の煮干しを使いミソラーメンと見間違うような色合い。煮干しラーメン好きの青森県民には、何店もある煮干しラーメン店を巡り続け、最後の最後でたどり着く「最終地点」のような扱いを受けている。
そのラーメンを提供しているのが、今回紹介する「中華そば田むら」の店主・田村信成さん。昭和45年生まれで、沖館小、沖館中と進み、青森南高校を卒業する。
今のガッチリした体型からは想像しづらいものの、中学校時代はバスケットボール部で汗を流していたとの事。高校卒業後は、地元のデザイン会社に勤め、紙媒体中心の版下・写植を担当。会話をしていてもデザイナーの片鱗を伺う事が出来る。30歳の時に、長年勤めたデザイン会社が倒産する憂き目に。そこで次の職を考えていた時に、興味のあった飲食業界で生きていく事を決意する。ホテルの洋食見習いから、ダイニングバー、居酒屋と様々な飲食業界を経験する。休みの日になると、ラーメンを食べ歩く事も多く、その中で出会った弘前の煮干しラーメンの名店「たかはし」に興味を持ち、居酒屋で働いている時に、仕事の関係で知り合いになった現在「ひらこ屋」を経営する三上さんと出会う。その当時、幸畑で「雷門(らいもん)」を経営していた三上さんが、新しい場所で雷文とはべつの形態のラーメン屋「ひらこ屋」を出す事を知り、そこのオープニングスタッフになるべくラーメン業界へ転じる事になる。
雷門で基本的なラーメンの作り方を学んだ後、三上さんと一緒に「ひらこ屋」の新しい煮干しラーメンを作り上げるべく、試行錯誤を繰り返しながら味を作っていった。そこで技術を学び、ラーメン作りにも興味を持ち始めた頃、自分の味と自分のペースで働きたくなり、2006年6月、今の場所(サンロード青森近く)に「中華そば 田むら」をOPENする。当初、目指したのは「アッサリ煮干しラーメンと濃い煮干しラーメンの区別をはっきりさせたかった」との事。
田むらの麺は、自家製麺。煮干しの風味を引き立たせ、かん水を控えめにするために、麺の表面ではかん水を使用せずなめらかな口当たりに重きを置き、麺の芯にあたる部分にかん水を使用してコシを出す2重構造となっている。出汁はひらこ煮干しの頭とワタを取り味を安定させる事を重要視し、いりこ(片口いわしの小さい物)を合わせる。鬼煮干しのスープは、この魚介出汁に15時間煮出したトンコツ、鶏ガラを加え調整されたもの。
トンコツスープは、朝7時から夜の12時まで毎日煮込むため、田村さんは1週間のうち店の休みの水曜日以外は、家に帰らず店に寝泊まりしている事を聞いたのは驚きだった。風呂や食事は外で軽く済ませ、夜の12時に仕込みを終えてからの睡眠時間を確保するためとの事。
だからと言って、ストイックなラーメンの鬼という訳ではなく、物腰の柔らかい、ゆったりとした感じで、色々聞かれる質問に対して丁寧に語ってくれる。聞きづらい質問だったが、周囲の人達から、たまに言われる、
1,ラーメンを注文してから出てくるまで時間がかかるんで短縮して欲しい
2,夜も営業して欲しい
という2つの要望を、質問してみると、理由はアッサリ理解できた。
まず、ラーメンが出てくるまでの時間。それは58席というラーメン屋にしては大きい方の部類に当たるにも関わらず、
店主1人だけで作っているから
というのが全てであろう。同業の友人からも、他の人にも任せてみてはどうかという事は言われるものの、
「自分の味に拘りたくて店を作ったので、体が続く限り自分で全て作りたい。」
との事。この拘りがある限り、混雑時の配膳時間の短縮はなされないであろう。話を聞いていても、「1杯の価値を高める」という言葉が何度も出てくる。こればっかりは理解する以外に対処策はなさそうである。
2番めの夜の営業に関しては、仕込みに15時間使っている事もあり、体力・集中力が持たないためとの事。これも美味しい1杯を出すための心がけだと言える。
1週間、店に泊まりこみ、週1日の休みも、銀行に言ったり雑用をこなして、夜に軽く飲みに行ったら終わってしまうラーメン一筋にも見える仕事っぷりだが、語る口調からは、それでもラーメン作りという仕事を、心から楽しんでいる気がする。
煮干し会に入ったのは、懇意にしてもらっている「ひらこ屋」の店主・三上さんから誘われたからとの事だが、青森の煮干しラーメンの価値を高めるような創作活動や広め方を手伝っていきたいと、ここでも「価値を高める」という言葉を語ってくれた。
味への拘りは、これからも
「濃い中でもスッキリ食べやすい事と、味のパンチを出したい。」
と即答。将来的にも店を増やすとか大きくするとかは全く考えておらず、自分が拘るラーメンを自分で作り続けていきたいとの事。デザイン会社から始まり、常に何かを作り続けてきた職人らしい、気持ちのいい一言だった。
■煮干しラーメン データ
■店名 | 中華そば 田むら |
■製麺所 | 自家製麺 |
■煮干し | ひらこ煮干し、いりこ |
■特徴 | アッサリと鬼煮干しのハッキリと区別されたラーメン |
【第3話】私には、これしか作れません「高長まるしげ」
青森市長島に何十年も前から、うどんのような太さの麺と、煮干しだけでとった出汁で、シナチクとチャーシューが乗っかっていなければ、誰から見てもラーメンには見えない有名なラーメン店がある。青森市出身の元プロボクシング世界チャンピオンの畑山隆則さんが、子供の頃からタクシー運転手だった父に連れて行かれ、青森に帰ってきたら、そこのラーメンを食べないと帰ってきた気がしないと言わせるだけ、青森市民に愛された味。その味を忠実に受け継ぎ、中心市街地から離れた郊外で提供し、長島の店と同じくらい市民に愛されている店が、今回紹介するお店「高長まるしげ」。 店主の高杉茂樹さんは、昭和25年生まれの御年65歳。篠田小、古川中、山田高校と進み、高校卒業後は飲食業界とは全く関係しない一般の会社に就職。高校時代スポーツは、やっていなかったものの、働きながら柔道道場に通い2段の腕前。子ども達が小さかった頃は、道場で教えていた事もあるとの事。 高杉さんが28歳の頃、青森市にサンロード青森がオープンし、成田本店で運営する喫茶部で求人募集をしている事を知り、青森に帰って仕事をしたくなった時期でもあったので、東京から戻り就職。サンロード青森の2階に当時あった「ブックレット」という喫茶店のチーフとして4年を過ごす。そこで調理全般を学び飲食業界が好きになっていた頃、社内の人事異動で、新町にある本屋のレコード売場へ勤務する事に。 合わない訳ではなかったが飲食業界で働きたくなり、昭和59年34歳の時に退社。その頃既に、今も一緒に店を切り盛りしている裕美子さんと結婚しており、裕美子さんの実家である長島の店で何度も食べた煮干しラーメンの味に惚れ込んでいた事もあって、退社後、裕美子さんの実家であるラーメン店で修行しながら、昼だけ営業している形態だった店を夜に間借りする形で名前を今の「高長まるしげ」と、のれんを変え1人で始める事になる。 何年かは修行を兼ねて昼の営業も手伝いながら技術を盗むように覚えていった。先代は、何も言わず、ただひたすら見て覚えろという職人肌だったので、麺から出汁のとり方まで、自分の味にするまでは、昼夜兼任で働いた。完全に夜の営業を1人で切り盛りするようになってからは、昼には食べに来られないお客や、夜のタクシー運転手が立ち寄る店となり、店は昼に負けないくらいの賑わいを見せるようになる。
まるしげのラーメンの特徴を上げると、麺はうどんよりちょっと細いくらいの中太縮れ麺で量も1人前270gと普通のラーメン屋なら大盛りになるボリュームと、肉厚のあるチャーシューが占領しており、メニュー自体にチャーシュー麺が無い程、麺も肉もボリューム満点なところ。それを、ひらこ・片口いわしだけで取った、あっさりした出汁で、かきこむように食べるのが醍醐味。まるしげのラーメンを愛するファンは、みんなこの言葉を発し店を後にする。 「あ~、さっぱりした」 一風呂浴びたような、この言葉こそが一番しっくりくる表現だろう。
20年間夜のみの営業だった店は、2006年8月、郊外に店を移し、昼・夜通しての営業となり、2014年末に店舗拡大をするために再移転し、今の場所となる。今の場所になってからは、修行した長島の店と同じように朝から昼までの営業形態に変わった。仕込みの時間も当然早くなり、朝4時には2階にある住居から降りてきて3時間、麺40kgを製麺機で作り、15kgものチャーシューを煮込む作業を店主1人でこなすため、1日で提供出来る量は限られる。
まるしげの味の変遷を聞いてみると、使う煮干しの量は若干増え、麺は年齢もあり手捏ねから機械に変えたという違いはあっても、基本的な部分は30年間一切変えた事は無いと即答された。他のラーメン屋の味を意識したりしたこともなく、新しいメニューを加えることもなく、この味一本でやって来たと言い切る。 休みの日に、他のラーメン屋に行ったりしないのかとも聞いてみると、うどん・そば・ラーメンと麺類一般的に好きだが、意識して他のラーメン屋に行った事も無いと、さらっと言う。 煮干し会に参加した理由を聞いた時も、何かを学ぼうと思って入ったとか、個人的に何かをしようとした訳ではなく、 「大ちゃんに誘われたから。それだけ。」 と、親子くらい歳の違う会の代表でもある長尾中華そば店主の、お手伝いをしたくなっただけと、笑いながらあっさり言い切る。 仕事をしてる時は怖そうに見えるという客も私自身良く聞くものの、付き合ってみると、良くしゃべるし、よく笑う明るいおっちゃんというのが、私の感想。昔は、インターネットを見れない事もあってカメラで写真を撮られたりするのが、何を書かれているのか分からない怖さで撮影禁止にしたりしたけど、沢山の常連のお客さんが宣伝してくれたりしているのを知り、今では完全に慣れて、撮影禁止の貼り紙も店の移転と同時に貼らなくなったエピソードも教えてくれた。
店を大きくした理由の一つに、東京にいる息子さんに継いでもらいたいとか、考えての事かとも尋ねたが、
「無いって訳じゃ無いけど、本人の人生だから。本人の人生が一番だから。」
って、お父さんの優しい顔で笑っていた。
今まで味を変えなかった事も聞いてみると、ポツリと、
「自分のラーメンを食べると、ホッとするんだ。1年365日、30年間毎日食べてる。女房と一緒に、美味しい、美味しいって毎日。何回食べても飽きないんだ。」
と答えてくれた。 他のラーメン作ってみようとか、考えなかったのかも聞くと、
「私には、これしか作れません。ほんと、それしか出来ない人間だから。」
って言い切った店主「茂さん」の笑顔は、謙遜しながらも今まで30年やってきたからこそ言えるかっこいい一言だった。
■煮干しラーメン データ
■店名 | 高長まるしげ |
■製麺所 | 自家製麺 |
■煮干し | ひらこ、片口いわし |
■特徴 | アッサリした出汁に、山盛りの麺とチャーシュー |
【第2話】昔ながらの食堂の味をそのままに「原食堂」
昭和50年代、青森市内でも賑わいを見せていた堤町に1軒の食堂が移転してきた。廣田神社近くで始まった食堂は、浦町、松原と場所を変え、今の場所に落ち着き40年近く地元に愛され、今では情報を知ったラーメン通にも評価されるまでにもなった。
その店の名は「原食堂」。葛原(くずはら)という名前が覚えられにくいという事から縮めて今の名前になったと教えてくれたのが、現在の店主であり2代目の葛原竜治さん。甲高い声で笑顔をふりまく明るい店主さんの人柄も常連に愛される理由だろう。
奥さんの美穂子さんとパートさんで、出前までこなす堤町のシンボル的な食堂の1つ。
店主葛原さんは、食堂のある現在の場所で育ち堤小、浦町中、南高校と進み、高校まで野球部に所属し、高校卒業後は地元の会社に就職したが、本人曰く飽きやすい性格で、どれも長く続かず職を転々とし東京へも働きに行っていた事があったとの事。そんな生活が続く中、22歳の時、母親が病で倒れ、実家である原食堂を助けざるを得なくなり帰省し軽い気持ちで手伝いを始める事に。父親である先代・明さんの補助という形で働きだし、最初は雑用や裏方をこなし、やっと慣れてきた頃に原食堂のメニューを作りたくなり、父親にレシピを尋ねると、ラーメン・そばの製麺から調理まで、何から何までレシピのようなものが一切ない上に、聞いても何も教えてくれず、「目で見て覚えろ」の一点張り。しょうがなく自分で作り始めたものの、水の分量から練り方まで何もかも父親の仕事を見ながらの手探り状態。それでも父親は何も言わず、竜治さんの仕事を見守り、怒ったり指摘もせず、何年かが過ぎる事に。自分で考え、季節に合わせ麺の水の分量を変える必要性にも気づいてくると仕事が楽しくなり、何をやっても続かなかった事が昔話になるかのように、仕事にのめり込んでいった。30歳の時に、仕事にもある程度の自信がついてきた頃、高校が一緒だった美穂子さんと結婚し、1女にも恵まれ今に至る。
原食堂は、丼物、そば・うどんとメニューも豊富なのが特徴。竜治さんの代になってから、ラーメンと小丼をセットにしたものや「スープカレーラーメン」という食堂には逆に珍しいようなメニューも。
その中の1つに、B級グルメとしても注目されている中華そばに天ぷらが乗った「天婦羅中華」が。これも最近のものかと聞いたら、これは昔から定番であるメニューとの事だが、青森市内で天婦羅中華を食べられるのは、ここだけだろう。
(五所川原の「亀乃家」さんでは、名物として有名)
麺も自家製で作っており、重要な点を聞くと、最初の段階で行う「手ごね」と季節に応じた「水加減」であると教えてくれた。これをきちんと自分の物にするまでに、
「10年はかかったんじゃないかな~」と笑いながら教えてくれたが、いくらレシピが無いとは言え、それだけじゃなくプロのレベルとして、安定した味を、お客の前に出せる物になるまでは、それだけの時間と努力が必要なんだろう。
スープは、 「うるめ」「かたくち」イワシの煮干のブレンドで、これに鶏ガラ、豚ガラ、昆布を加え、全ての素材の良さが出る「優しい味」を心がけているとの事。煮干スープで拘っているところは、量ではなく煮干から出る「脂」の出方で味を調節しているとの回答。竜治さんがスープを担当するようになってから、若干自分なりのアレンジを加えたりしたが、歳を重ねるごとに、昔ながらの味に原点回帰するようになっていったとも教えてくれた。
確かに原食堂のラーメンを食べると、津軽そばがルーツと言われる蕎麦屋のラーメンの味を醸し出しており、今風とは言えない懐かしい味がする。沢山選択肢のある現在のラーメンの中で、原点回帰こそが逆に「新しい味」とも言えなくもない。
丼物も人気で、そこの拘りも聞くと、カツ丼、カツカレーで使っているカツは、県産豚を使い自分で揚げているとの事。以前は肉屋で作ってもらったトンカツを仕入れていたが、自分で揚げるようになってから格段に旨くなり、それから10年近く、値段の変動があっても変えずに味を守っている。出汁の効いたカレーとの相性も抜群で、ラーメンとカツカレー、ラーメンとカツ丼のセットを頼む客が多いのも頷ける。
そんな老舗の食堂が、ラーメン屋が集まる煮干し会に参加した経緯を聞いてみた。
数年前から店によく来てくれる長尾中華そばや五丈軒の店主と話をしたり、実際に店へ出向き新しい味のスタイルに刺激を受けたのと、自信を持って「自分の味」を貫く姿勢に感銘を受け、葛原さん自身も自分の味に自覚と自信を強く持ちたくなり、参加して色々な事を学びたくなったとの事。煮干し会に参加した後、一層ラーメンの味に対して拘りが出てきたのと、他のラーメン屋に行って食べる時でも意識が変わってきたのが収穫だとも。
老舗の味を守りながらも、自分自身に自信を持ち、味にも自信を持ちたいと、明るいトーンで話す葛原さんは、既に自分を持っている「立派な自信」を感じた。
娘さんが店を継承していくか尋ねると、全く考えておらず、自分の代で原食堂は終了させる予定だと。ずっと、このままやっていくのかも分からないし、夢としては「ビートルズが聴ける喫茶店にして、ラーメンを出してみたい」と笑って言う葛原さんは、どこまでも明るい老舗店主さんだった。
■煮干しラーメン データ
■店名 | 原食堂 |
■製麺所 | 自家製麺 |
■煮干し | うるめ、片口いわし |
■特徴 | 煮干しや他の素材のバランスを考えた昔風の中華そば |